ASANO PRIDE AS A CRAFTSMAN VOL.4 : SHIGERU IMAIVol.4 今井 滋
2010年春、家族と初めて行った中国旅行。その秋、異動の内示を受ける。「今井 滋 殿、2011年、中国赴任を命ずる」想像もしなかった中国での仕事に不思議な縁を感じた。浅野初の中国事業立ち上げに、今井を含めた5人のサムライが、いざ出陣する。
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家族に請われて入った樹脂成形金型の世界。養殖を手掛けていた当時、父が病に倒れ、長期入院を余儀なくされた。兄が独立して樹脂金型工場を立ち上げるときであった為、兄に請われ、金型業界に転進することになった。魚の世界から金型の世界に180度転換。周囲から見ると異色だが、当の本人はいたって気負いがなかった。勝手が違うところは兄のOJTを受けながら、創意工夫を積み重ねた。真綿が水を吸い込むように、金型の知識をみるみるうちに吸収していった。
浅野 樹脂事業部SERAの前身「世良製作所」とのお付き合いは、家族ぐるみであった。金型業界で「世良」といえば老舗の一流処であった。独立して金型屋を立ち上げるものも多かったと聞く。今井が「世良製作所」に移るのも、お付き合いの中での自然な流れであった。実は兄の息子も現在、樹脂事業部SERAの設計部門で働いている。今井が笑う。「時々かかってきた電話がどうも話がかみ合わなくて、よくよく尋ねてみると甥宛の電話だったなんていうことがあります。」
「世良製作所」に入社後も、新しいことにどんどん挑戦を重ねた。マシニング加工機のソフトが購入できないこともあった。そのときは1年間、仕事をしながらBASIC言語*2をマスターし、マクロプログラム*3で自動計算をしながら2.5次元、3次元の複雑な形状の金型を切削できるように自作のソフトを開発した。「そんなこともあって、仕入先の機械設備メーカーの方からはうるさい人で有名なんですよ。」と苦笑しながら語る。何でも自分で作ってしまうので、メーカーの営業担当者を通りこして、直接先方の開発担当者とやりとりをすることも度々だ。今井は続ける。「技術者同士のリトマス試験紙みたいなもんです。メーカーに出来ないと言われてもあきらめません。出来るのりしろをこちらで見極めて、要望を投げると、先方の技術屋もこちらの期待に応えてくれます。」
金型の世界でモノづくりのおもしろさを噛み締める今井。最近、気になることがある。若手のモノづくりにかける意気込みだ。「技術者の道に入ったら、世間に胸を張って認められる技術を磨くことが欠かせません。学校ではお金を支払って宿題をします。会社ではお金をもらっているのだから、自分で課題をつくって覚えていかなくてはいけません。」と語る今井は、有言実行である。金型の世界に入ってから独学で一級放電加工技能士*4の資格を取得した。丸1日を要する長丁場のこの国家試験を制したのも、日ごろの仕事における創意工夫の賜物に違いない。
若手に向けて語るときは、こんな話をするという。「先輩から言われたとおりに仕事をしても、8割の完成度なんです。当たり前ですが自分は先輩にはなれないのだから。つまり前任者から言われたことだけをやっていると、8割×8割×・・・とどんどん完成度が低くなっていきます。8割の完成度に自分の努力で4割を加えるから、前任者よりも2割増しのいいモノができるのです。」
会社から求められる仕事をこなして、定時で上がるのではなく、プラスアルファのことに自分の時間を使ってはじめて一人前になれるのだ。一生懸命にいろいろな技術を身につけた結果、あとから報酬として報われるということが骨身に滲みる今井。少し歯がゆく感じるところがあるようだ。幼少期から魚を飼育してきた今井にとって、手を抜かずに継続して努力することの大切さを肌身で感じているのだ。今井自身もそうだが、いろいろな資格にも挑戦して欲しいと若手に想っている。
2004年に「世良製作所」が株式会社浅野と合併した。その後、今日に至るまで引き続き京都で樹脂成形金型を手掛けている。「合併して一番変わったことは?」の問いに、「ものごとを徹底的に書面に残すことですね。電話でも口頭で済ませず、メモを取るクセがつきました。当初、慣れなくて苦労しましたが、今その大切さを実感します。口約束でなく書面に記すことは、文化の異なる中国事業でも無用な誤解を避ける上で、活かせると思います。」と今井は言う。