ASANO PRIDE AS A CRAFTSMAN VOL.3 : HIROYUKI HARAVol.3 原 博之
品質保証では浅野社内で原の右に出るものはいない。設計図に目を通すと、そこに設計者の心を汲み取るという。おだやかな視線と語り口を通して、浅野の品質保証にかける流儀を語る。
浅野における品質の番人
番人はこうして育まれる
ふとした時にいろいろと面白いアイデアが原の頭に閃く。技術開発部主催のアイデア発掘募集では、浅野オリジナルの冷めない弁当箱を提案した。最近は形状測定器で人をスキャニングすることで銅像を作ってみるアイデアが頭をよぎった。モノづくりが好きだと語る原。実は浅野入社時、配属希望は製造部門だった。>
モノづくりに興味をもったのは幼少期に遡る。物心ついたときから分解するのが好きだった。例えばバイク・車のプラモデルや自転車などの乗り物を分解しては組み立てることを何度も繰り返した。
そんな原は迷うことなく地元の工業高校の機械科に進学する。旋盤*6、フライス*7等の技術を学ぶ一方で、空手愛好会に入り上下関係の厳しさに揉まれながら礼儀の大切さを学んだ。類は友を呼ぶというが、浅野社内を歩くと原に限らず皆一様に礼儀正しい。これは礼儀を大切にする上司の背中を見て部下も育った証だろう。
高校卒業後は、大手自動車メーカーの整備部門で15年過ごす。浅野入社前に自動車、二輪車の整備と板金を手掛けたことが、今の仕事に活きていると原は語る。
発注者側で仕事をしたことにより、設計者の気持ちが分かるのが原の強みである。加えて二級ガソリン自動車整備士、二級二輪自動車整備士の資格を持つことで、お客様から依頼された部品が何に使われるのかを即座に理解できるのも原の持ち味だ。
そんな原だが、浅野入社後は甘くはなかった。平成元年に入社して配属された品質保証部では、車のことは知っていても品質保証についてはまったく分からなかった。前品質保証部長の杉本氏から、品質保証の1から10までを教わった。当時は50~60人くらいの会社だったので、時には明け方まで働くこともあったと原は回想する。
風邪をひいて倒れ込んだこともあった。そんなときにやさしく声をかけてくれたのが、先代の浅野社長であった。杉本氏を兄貴とすれば、先代の浅野社長は親父だったという。仕事には厳しかったが、体調を崩したときには、若い自分にも親しく語りかけるその人間味に魅了された。自らの若かりし頃の思い出が、今の原の部下に対するやさしさになっているのだろう。
尊敬する人をもうひとり尋ねたところ「本田 宗一郎氏」の名を挙げた。実は本田技研工業社と浅野は似ているところがあるという。若い人が伸び伸びと、型にはまらず一生懸命仕事に取り組む姿勢である。
入社した当時に比べて成長を遂げた浅野。現在も中国事業や新工場設立に向けて邁進するなか、県内では高い評判を築いている。もっと社内の若手にその素晴らしさを気づかせて、浅野の社員であることに自信と誇りをもってもらいたいと語る原に、品質の番人として若手育成に向けた決意がうかがえる。
最後に「週末の過ごし方は?」と尋ねたところ、他のASANOマイスターと同様に「仕事」という返事が返ってきた。